専門性?

久々にブログを更新する。

すでに講義が始まって3週が過ぎた。後期は障害者福祉論2と社会福祉実習指導1を担当している。前者はともかく、後者はゲストスピーカーや見学自習、実習の配属などを行う特殊な講義だ。なぜか1教員20名という人数制限もある。

実習指導1では、今日は「社会福祉士の歴史」について話した。確かネタ元は、杉野昭博さんの論文だったと思う。
2001「大学における福祉専門職教育――迷走する資格制度と養成課程」『関西大学社会学部紀要』32巻3号 pp.299-315

前回の日本社会福祉学会の大会ツイートでも触れたが、社会福祉士の誤算は、介護保険開始時に、資格保有者の量が揃わず、他職種に介護支援専門員を解放せざるを得なかったことにある。また、行政分野では1950年から続く「社会福祉主事」の長年の慣習が社会福祉士によって刷新されずに(近年それでもようやくその動きが見え始めたが)いることも社会福祉士の業務が確立しないことに影響しているだろう。

「では、先生が考える社会福祉士の専門性とは何ですか?」

講義の最後に学生から上記の質問を受けた。
君、ど真ん中の直球も時として人を惑わす武器となることを知っているね。

私の返答は、いつも学生と議論していることと同じだ。私が社会福祉士の専門性について考えるときに参照するのは、三島亜紀子さんの業績と三井さよさんの業績だ。

ケアの社会学―臨床現場との対話

ケアの社会学―臨床現場との対話

専門職は、限定性を高めることでその価値が高まっていく。「それは私の仕事ではありません」と言える機会が多くなっていけば、自ずと「それこそが私の仕事です」という仕事が確立されていき、またそれが排他的に他職種から切り離されることで、独占業務と専門職は確立する。
対照的に家族は、「その人を救う/生かすためのすべてのこと」を行う。医者探しや日常的介護は言うに及ばず、加持祈祷や新しい神様へのお布施まで、ひとえに「自分の大切な人が助かるためのすべてのこと」を「無限定」に行う。

ソーシャルワーカーは、知識/技術/価値(倫理)を基盤にした専門職であるが、特に価値を重視する。クライアントが主張するニーズ(表出されたニーズ)とは別の介入を行う際、その根拠は倫理綱領にある「人権」と「社会正義」だ。

一方で家族もまた、クライアント、という家族の他の成員の主張するニーズを退けて介入することがある。その根拠は愛情である。そしてそれは専門性ではなく、パターナリズムと呼ばれる。

相手のいうことを退けて別の介入をする根拠が専門性とパターナリズムと二つある訳だが、障害者運動はどちらも批判を加え「私たちのことを私たち抜きに決めないで」と声を上げてきた。ソーシャルワーカーを目指そうという学生たちが、この批判にどのように向き合っていけるかを問うことは、煩雑な事務作業の中での少ない希望である。