社会学の範囲?ー岸政彦『断片的なものの社会学』(2015、朝日出版社)
『断片的なものの社会学』を読む。平日の午後に、KFCの2階で読む(この事自体が1年半ぶりの驚きかも。ケアの外部化バンザイ。)
すぐにページを閉じざるをえない。眼から涙が出て止まらない。ずるい。こんな本を書くなんて。岸先生ずるい。
20代の頃はそれなりにフィールドワークをしてきた。一つの成果として、『知的障害者家族の臨床社会学-社会と家族でケアを分有するために』(2006年、明石書店)という本になっている。もう絶版で出版社にはない。
でもこの本は、自分で気に入った本ではない。学位を取るために、小奇麗にまとめざるを得なかった部分も多い。
自分がいちばん気に入っている「ベストエフォート」の原稿は 中根成寿,2010,「わたしは、あなたに、わかってほしいー「調査」と「承認」の間で」好井裕明・宮内洋編『当事者の社会学ー調査での出会いを通して』北大路書房,105−20. である。
後に上野先生には的確な批判を頂いたが、自分が、狭く暴力的な社会学の行使者であることを開き直った、自分の諦め宣言の論考である。
本当に書きたかったエピソードはもっとたくさんあった。『分有』で書いた食べ残しやへその緒のエピソードの他に、理不尽な自分の状況や社会への不信感をもっと生々しい言葉で表現された方もいた。その言葉を、自分が大学院生のころ、ゼミで発表して、師匠からやんわりと諭されたことを思い出した。
「社会学の範囲に、ぎりぎりで踏み止まれ」
そんな風に言われたように覚えている。でも、『社会学の範囲』ってなんだろう。概念や理論を生み出し、現象を説明するの社会学なら、岸先生が『断片ー』で掬いあげた現象は、全て社会学の範囲じゃないか。そこに「概念」やなにかを貼り付けて、分析するプロセスがあるかないかでなにかが決定されるのか。
少なくとも、私は30代でのフィールドワークから逃げた。忙しいとかそういう理由じゃなくて「概念が貼り付けられない現象」から逃げた。制度の調査もそれなりに楽しいものではあるが「逃げた」という負い目からは逃れられない。
Iさんが向き合っている以下の様な現象には、いたるところで起こっているのだから、かならず「概念化」できる。
それが社会学の(範囲の)言葉になるかどうかは、わからないけれど。
そして『断片ー』の感想…なにかを語りたくさせる本、でもなにかを語ることで他の解釈を封じてしまうことが怖くなる本。でも、誰かと、できれば、フィールドワークの帰りに、喫茶店で、カフェで、興奮冷めやらぬ感じでフィールドノートを見返して、ウキウキしながら帰って、でも同じ日の夜に昼間の高揚感が気恥ずかしくなって、枕に叫んだ経験のある人と、やっぱり喋りたくなる本。