0080〜0083と2011〜2014

注)この文章は事実を元にしたフィクションであり実在する人物、団体等を批判する意図はありません。福島智,2013,「日本の障害者施策の質的・構造的変換を目指して-障がい者制度改革推進会議、障がい者政策委員会の審議を中心に」『季刊福祉労働』141:67-77.を読んでいて、3年という年月がガンダムと通じて頭のなかでつながったので、思ったことを書いてみました。

 福島のこの論稿は障害者制度改革推進会議総合福祉部会をめぐる戦史だ。私は障害者制度改革推進会議総合福祉部会を、日本の障害者運動が小異を乗り越え大同団結し、官僚支配や専門家主義に対向する障害者運動の独立運動だと感じていた。

 2011年8月に総合福祉部会の『骨格提言』は障害者自立支援法違憲訴訟和解合意、障害者権利条約、学校教育法、差別禁止法などいくつものテーマに関わる人々が、そこに関心を集中し、情報を集め、発信し、パブリックコメントを書き、議論してできあがったものだ。制度改革派にとっての、いわば戦局の中心であった。独立運動側にとってブリティッシュ作戦であり、ルウムであった。障害者制度改革推進会議総合福祉部会の結果はここでは繰り返さない。すでに大局は決し公的には和平条約も結ばれた。独立運動の目的のはずだった新法案・障害者総合福祉法(ジオン公国)も名前を少しだけ変えられ、障害者総合支援法(ジオン共和国)になった。

 いつも考えることがある。独立戦争が終わった後、和平条約を認めず、地球で局地戦を続けるジオン兵に対して、かつて共に闘っていたジオン兵はどんな感情を抱いていたのだろう。

 総合福祉部会の盛り上がりとその後の展開についての人々の評価は様々であろう。敗北と捉える人もいれば、始まりと捉える人もいる。勝っても負けても全ての人には生活があるのだからいちいち下を向いてはいられない・・・などなど。2011から2014。3年という月日は、人々の生活を変えるには十分な月日だ。局地戦を続けている人には短く、戦いを避け生活を取り戻した人には長い。まだ3年、もう3年。

 福島はこの論稿で総合福祉部会よりはるか以前、のちに「障害者自立支援法」と呼ばれる法律の下案が社会保障審議会障害者部会に示されたときの記述を以下のようにしている。

2004年10月12日の障害者部会において「障害保健施策の改革試案(障害保健福祉改革のグランドデザイン)」が厚生労働省(以下、厚労省)から示された。それを一読して、筆者は直感的に思った。「ああ、これは通るな」と。財務省や法制当局、さらに与党筋など、関係各方面への必要な根回しがされた上での固められた、いわば「既定路線のデザイン」だと感じたからである。そして筆者ら部会委員はただ、この「デザイン」をそのまま認めるためのアリバイ作りに集められ、そのアリバイ作りこそが「委員に期待される実質的な役割」なのであろうと思った。(福島 2013:68)

 このグランドデザインに関する意見書の中で福島は歴史に残る「無実の罪で収監された人から、刑務所を出るのに保釈金を徴収するのに等しい」という名言を残す。その後に、福島の直感通りに成立した障害者自立支援法は、各地での違憲訴訟によって追い込まれ、自公政権の退潮も相まって、民主党政権への政権交代の後、新政府によって和解合意がなされる。そして民主党政権のもとで障害者制度改革推進会議総合福祉部会による当事者による新法案の骨格づくりが始まる。独立運動に似た高揚感が関係者を包んだ。

 福島も総合福祉部会の構成員として骨格提言に関わり、自公政権時代の社会保障審議会とは全く異なる議論のプロセスを経験する。しかし総合福祉部会が独立運動後の「和平条約」として手にした「障害者総合支援法」は総合福祉部会が期待していた「期待」とはかなりの隔たりのあるものだった。福島は総合福祉部会的な手法の限界を以下のように述べ、この独立運動の中で得た「経験知」を語る。

 …当事者のニーズを背景に、それを満たすために行政や社会と闘うという手法だけでは、もはや限界に来ているのではないか。障害者福祉を巡る財政論から言えば、筆者を含めて、どうしても国の予算をあてにするという発想になりがちである。それももちろん重要なファクターではあるものの、それだけでは今後、財政面で行き詰まる可能性がある。GDPの10%程度の税収の「パイ取り合戦」だけでは、自ずと限界が生じる懸念がある。もちろん、高負担高福祉で北欧並みに消費税などを20%、30%くらいに上げてもいいと国民の合意形成ができるなら、それはそれで新しい社会像の選択の一つになるだろう。しかし、日本社会の現状や国民性を考えると、少なくとも近い将来にそうした選択は実現されないと筆者には思える。そうであれば、実現可能な路線で、どうしたら障害者やその他のマイノリティが生きやすい社会をつくり出せるか、知恵を絞ることが必要だ。従来型の当時者(ママ)のニーズを要求する運動だけでは十分ではない。かと言って、「アリバイ的」に国・行政の政策審議の土俵に乗って意見を出すだけでも限界がある。これがここ十数年、とりわけこの三年余り、障害者制度改革の一端に関わってきた筆者の「経験知」である。(福島 2013:74-75)

 総合福祉部会の骨格提言から今年で3年。独立運動が講和条約によって終結した後も、局地戦はまだ続いている。各自治体の差別禁止条例づくり。インクルーシブ教育、障害者権利条約批准。私の所にも召集令状が届く。独立運動はまだ終わっていない、と。

 しかし、生活の惰性は恐ろしいもので、妊婦のケア、食事作り、オムツ交換、授乳、夜泣きをする乳幼児と向き合っていると、遠い戦地で起きていることがまるでフィクションのように感じられることがある。ケアをしながら、参加できない研究会やシンポジウムを横目に見るのは、それなりにつらい。
「なにをやっても官僚主義と大衆に飲み込まれる」と斜に構えれば、少しは楽だ。だが、それでいいのか。同じやり方ではなく、別のやり方で独立解放とまでは行かなくても、そこそこ恙無く生活できる方法を小さく育てられないか…。二次的依存状態の毎日の中でそんなことを考えました。