親の介護に必要な資源

中学時代の友人から、「親の介護に備えて今からできることはあるか」という質問を受けた。自分の周りでも気にしている人は多いだろうし、普段考えていることばかりなので、自分のメモとして残します。

高齢者=介護が必要、ではない。だが、高齢化=介護が必要になる確率が高まっていく、ことは間違いない。
そして、高齢化して介護が必要になる状態になると、介護以外にも必要な資源が出現する。

介護に必要な資源は、カネ、ハコ、ヒトである。そして、それぞれに「自助」「共助」「公助」の制度がある。

カネが必要な理由は、日々の食事、趣味、冠婚葬祭、介護保険料など、現役時代から必要な日常コストに加えて、介護保険利用料、医療費の自己負担分など、身体の状況に応じた追加出費が出現するからである。

カネ=手元にあって自由に使える(他人に使い道を制限されない)現金

カネの自助
 仕事を継続する、親族から仕送りを受ける、退職金、貯金など。ただし、仕事は身体的な能力が衰えていることや、年齢により被雇用が難しければ自営業(不動産経営などのインカムゲイン)などがありうる。民間の個人年金養老保険もこちらに含める。

カネの共助
老齢年金がもっとも主流。現役時代の所得や、働き方によって額に個人差がある。自分の親の年金受給額を共有しておくことが必要。

カネの公助
現金を受け取れる公的扶助は、生活保護制度。資産があれば受けることはできないので、貯金や資産を処分する必要がある。それに同意しない家族がいる場合(法定相続人はたいてい処分に反対する)、それはできないので保護を受けられない。

ハコ…住居のこと
持ち家、借家だけでなく、有料老人ホーム、サービス付高齢者向け住宅も選択肢に入る。ほとんど選べないが病院(精神科病院含)もハコといえばハコ。一番問題になるのは、家賃(ホテルコスト)が発生するかしないか、そこに(質はともかく)ヒトは付いているのか、ヘルパーが24時間いるのか、看護師の配置、医師の配置、食事が付いているかどうか…などなど。

ハコの自助
 言わずと知れた持ち家。長い労働者生活の中で住宅ローンを払い終えて家賃がいらない住居があれば、なおかつそこに住み続けられる身体機能があれば、最強。修繕費もかかるけど、ランニングコストは最も低い。有料老人ホームの入居費用はピンきり。数百万から1億円超えまで。これは最初にかかる費用で月々のランニングコストは別にかかる。有料老人ホームは身体状況の変化によっては退去を迫られることもあるようなので要確認。

ハコの共助
 介護保険で利用できる、特別養護老人ホーム介護老人福祉施設)がこれに当たる。年金程度で利用できるが、安いだけに大人気。入居を待っている人がたくさんいる。田舎に行けば、空きはあるが、都心では5年以上待つことも珍しくない。一般病院や介護老人保健施設医療保険介護保険で利用できるハコと言えなくもないが、いずれ退院・転居をしなくてはならないので、特別養護老人ホーム以外は終の棲家にはならないと考えておいたほうが無難。

ハコの公助
 生活保護を活用した養護老人ホーム救護施設。資産があれば利用できないので、心配してくれるような(余裕のある)家族がいる場合はまず利用できません。

ヒト(介護労働力)
 これがもっとも大事で難しい。どうして大事なのに難しいかといえば「日本ではカネとヒトを交換することが非現実的」であるということ。よく爺さん婆さんが「老後の資金に」とかいってカネを貯めこんでいるが、カネがあってもヒトがいなければ、生活していけない。カネが老後の支えになるためには、ヒトとカネを交換できるシステムがあって初めて成り立つ。
 介護保険は確かにカネでヒトを買える仕組みではあるけれど、保険の範囲(1割負担)でまかなえるケアは限られているし、保険外でヒトを買う(10割負担で)のは大変にコストが高い。
 このコストが安い東南アジアでの相対的な先進国(タイ、ベトナムシンガポール)では、介護問題は発生しにくい。周辺から為替差益を活用した安価な介護労働力としてメイドがやってくるから、カネでヒトを雇うことができる。日本では外国人介護士を導入することに業界が大反対しているので(ダンピングが起こるから)、介護保険がぶっ壊れない限り、この見込みは低い。

ヒトの自助
 健康な身体に勝る自助はない。PPK(ピンピンコロリ)を高齢者や政府が望むのは、本人とっても政府にとってもそれが一番めんどくさくないから。でもめんどくさくても身体は思うように維持できないし、自分は健康でも自分の配偶者や家族の身体は老い、結局誰かのヒト(ケア)は考えなければいけなくなる。
 日本でこれまでこの選択肢は「家族による無償の介護」によって賄われてきた。同居する家族がいれば、さらにその家族が就労せずに専属のケアラーとして時間が使えれば、社会は家族の中でなにが起こっていようとも「家族の中のこと」とだんまりを決め込んできた。ケアラーとは専業主婦のことであり、子どもの介護(育児)が終わった頃に103万円以内でパートに出て、親の介護が始まればパートをやめて専業ケアラーに戻る、という選択肢が日本における介護の社会問題化を抑えこんできた。政府が何にもしなくていいから「親の介護は日本の美徳」ということにして「介護しない家族、嫁はひどいやつだ」とオヤジ政治家が考えるのは自然なことだ。女性の就労率が高まり、三世帯同居率が下がれば、もうこのソリューションが非現実的なのは言うまでもなく、ヒトの自助で乗り切る、というのはは何も言わないことと同じ。

ヒトの共助
 介護保険が画期的だったのは、ヒトの共助体制を作ったことにある。家の中でやっていれば無償なことが、介護保険システムを通せば有償労働になり、自宅にヒトがやってくる。払える人が払い、使う人が1割払う。無償でやっていた人が賃労働者になり、給料を受け取り税金を払い、保険料を納める。すばらしい革命だ。
 介護保険を利用したヒト資源の活用は、大きく分けて3つある。「在宅」か「通所」か「入所」か。特別養護老人ホームならば、ハコの心配もいらない。特別養護老人ホームはハコとヒトがセットになっているが、自由な外出や個別支援はなかなかに難しい。有料老人ホームもハコとヒトがセットになっており、自己負担を追加していけば、上乗せ横出しなど保険外のサービスを利用して生活することができる。
 「在宅」と「通所」は一緒に考えたほうが都合が良い。ハコがあって、身の回りの家事、買物、入浴、外出などが自由にできれば、つまり現役時代と同じような生活をできればヒトは必要ない。しかし、体が衰え、運転ができなくなり、一人では外出ができなくなれば、ヒトの手を借りずには買物、通院、社交もできなくなる。介護保険のヒト資源はこれを補うサービスである。ただし、24時間誰かがそばに居てくれるほど介護保険はたくさん使えない。せいぜい1日3回、ヘルパーがうちに来て、食事や掃除をしてくれるぐらい。後の時間、ヒトがいなければぼーっとテレビでも見て過ごすしかない。トイレに行こうと思って廊下で転ぶこともあるだろうし、着替えができなければ、体が汚れてもすぐに入浴できない。
 だから在宅の人は昼間「通所」するのだ。集団生活にならば、その分ヒトコストが下がる。朝迎えに来てもらって、夕方まで集団生活をする。お風呂も通所介護ではいり、夜、家では入らない。健康状態(バイタルチェック)もある程度管理してもらって、なにかあれば、夜、家に帰ってくる同居人に報告が来る。一人暮らしの人は在宅ヘルパーと通所を組み合わせて、家で生活を続ける。できればここに医療もくっつけて、在宅での介護・看護・医療、つまりハコとヒトをひっくるめて地域包括ケアシステムと呼ぶ。

ヒトの公助
介護保険は、生活保護受給者は保険料なし、自己負担なしで使えます。もちろんサービス水準は共助のヒトと同じ。

制度と制度の間の話
さて、ここまでは全部「制度」の話。カネもヒトもハコも、全部システムの話し。実は一番難しいのは、この複雜なシステムの組み合わせを愛情や個別性をもって引き受けて、マネジメントできるのは誰か、ということ。ケアマネージャー?地域包括支援センター? ソーシャルワーカー? これらの専門機関、専門職はお手伝いはしてくれるけど、この二つも「システム」だから、個別性には限界がある。愛なんてとんでもない。システムが愛をもつことはなく、システムが愛とか言い出したら気をつけたほうがいい。それができるのは、家族か、友達。顔と名前が一致していて、それまでの人生でその人と関わった人。個別性や愛情を持ちうるのは、関係性の履歴をもった存在だけ。家族や友達がカネやハコを提供したり、ヒトになることはしなくていい。それやると関係性の履歴が壊れる。家族や友達、そして介護を受ける自身がやんなきゃいけないことは、誰とどこで生活するか、そのために使えるカネ、ハコ、ヒトはどれぐらいあるのか、みんなで共有すること。身体の状況は必ず変わる。使える資源は、それまでの人生の蓄積で露骨に変わる。

そういえば、最新の婦人公論で、上野先生が「家、友達、1000万円」とおっしゃっていた。これまでの話と整合性もある。

とりあえず第1稿はこんなところです。