読書メモ

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

三井さよ, 2011, 「「知的障害」を関係で捉えかえすー痛みやしんどさの押しつけを回避するために」, 『現代思想』39(11),227-237.

三井さんの論文が、私のtwitterのTLを飛び交っている。lessorさんのところでもじっくり議論されているだろうから、私はメモ書き程度にしておく。

冒頭の田中耕一郎さんの知的障害の社会モデル批判だが、田中さんは、2007の論考以降も、知的障害の「弱さ」にずいぶんとこだわっている。『社会福祉学』に立て続けに掲載された二本の論文は、哲学や倫理学を採用しつつ、「知的障害の社会モデル」の構築を目指している。

田中耕一郎, 2009, 「連帯の規範と<重度知的障害者> −正義の射程から放逐された人々−」, 『社会福祉学』50(1),82-94.
田中耕一郎, 2010, 「 <重度知的障害者>の承認をめぐって : vulnerabilityによる承認は可能か」, 『社会福祉学』51(2),30−42.

昨年、札幌のパーソナルアシスタンス制度の調査の折にお会いできたのが(田中さんは今年はリーズ大学ディスアビリティセンターに外留中)、この件に関して詳しくお話しできなかったのは残念だった。札幌市のパーソナルアシスタンス制度の委員を務める中で、「できる障害者」が可能性を得ていく一方で、「できない(とされる)障害者」が放置され、しかも責任が個人化されていくことに歯がゆい思いをされていたに違いないと推察する。

さて、「できる−できない」と「わかる−わからない」について。

障害学の言うところの近代社会における「個人化イデオロギー」(能力主義と言い換えてもよい。できるーできないが、個人の内部に閉じ込められ、できることによって得られた物は、その人が自由にしてよい)が、「できるーできない」ことを個人の責任にする。できないあなたがわるい、できない私が悪い、できる俺ってすげー、できるあなたってすごい!(これはあんまり聞かない)

三井さんは、「できるーできない」で知的障害を見ることを変えてみよう、と提案する。とりあえず、細かいことは抜きにして「わかるーわからない」と言い換えてみましょう、ということだ。

できるーできない(当事者責任)
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わかるーわからない(相互関係)
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支援できる−支援できない(支援者責任)

できないのは、知的障害者の能力が低いから、の裏返しは、支援者に能力が足りないからできない、である。学生も「もっと支援が上手になりたい」とか言う。それって結局能力主義の裏返しだよ。相手のできない、を自分のできる、で補おうとする時点で、専門家主義の悪いところ、パターナリズムが発芽する。そして、自分の能力の改善が限界に来た時点で、相手のせいにして支援を諦める。私もよく陥る。

そうではなくて、うまくいかないことを、当事者のせいでも支援者のせいでもなく、関係の問題にしてみよう、という実に社会学者らしい、レトリックだ。実際にそう考えたところで、現実が急激に変化するわけではないけれど、考え方としては、どっちも救われる。

三井さんは、知的障害に特有の構図なのか?と質問を受けたときに、大学における教育に置き換えて考える。

教員−学生間では「わかるーわからない」問題は生じないのか?もちろん生じる。ただ、大学では、制度的な枠組みにおいて、学生が「わからない」事にされる」

「あの先生の講義、意味わかんねーよ」「私も」「おー、じゃああの先生が『うまい教え方ができない』んだね、もっと講義が上手な先生いないかなぁ」
そして学生は講義に出なくなり、関係が終わる。学生は卒業していき、問題はうやむやになる。

文科省もこのモデルにとらわれていることがよくわかる。文科省が打ち出したロジックは「教員の能力不足」という認識だった。

話を知的障害に戻すが、三井さんは、大学生は、卒業すれば、この構図から逃れられ、別の組織へと移行できるから問題が重篤化しないと指摘する。一方の知的障害者は、「わからない」から逃れる手段や可能性が少ないことが問題であると三井さんは言う。確かに、限られた場所で生活していればいるほど、人間関係は固定化し、その人が持つ関係性は貧しくなる。関係性が貧しくなれば、一度「できない」と判断された人はずっと「できない」という認識を他者と共有せざるを得ない。

三井さんの今回の論文は、明確な結論があるようなものではない。ただ、障害学が「知的障害の社会モデル」を確立できていない以上、こうしたマクロレベルから、帰納的に理論を鍛える、という試みがどうしても必要になる。最後に申し訳程度に制度の話が出るけれども、三井さんの議論を受けて、支援場面に戻っていける制度論を考えて行けたらな、と思っています。