明日の記憶(2006)のレビュー

ゼミ生で映画「あん」 の鑑賞会を行った。以前はこうした映画に関する企画をよく行っていたが、久々。鑑賞会の後はレポートを全員に提出してもらい相互共有する。『あん』のレポート締め切りはまだ先なので、久々に読み返した『明日の記憶』に関するレビューをブログに再掲する。FBにいる友人には認知症家族研究の専門家もたくさんおられるので恥ずかしいのだが…ご容赦ください。

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〈同じ〉であること/〈同じ〉でないこと-『明日の記憶』レビュー

 

論じる場面

  1. ギガフォース河村部長(香川照之)と佐伯の電話
  2. 浜野(渡辺えり子)と佐伯枝実子とのやりとり
  3. 菅原老人(大滝秀治)のつぶやき

なお、映画公式サイトには1,3の場面がテキストとして紹介されている。

 

同一性規範

明日の記憶』を見た多くの人々は「悲しい」とか「切ない」という感覚を覚える。自分の大切な人が、病に苦しむ、また老いに苦しむ、障害に苦しむ、のは本人と同じぐらい、周りの人にとってもつらいことがある。

しかし、それを「悲しい」「つらい」で留めていいのか。人が「悲しい」とか「つらい」と思うためには、「悲しい」や「つらい」と思う/思わせる仕組みが存在しているはずだ。そのことを自覚せずに、ただ「悲しい」や「つらい」と思うだけでは、他者の「老い衰えゆく物語」を消費しているだけにすぎない。

天田(2004a:60)は「〈老い衰えゆく身体を生きる〉とは、いわば〈他者化してゆく身体を生きる〉ことでもある」と述べている。これは自分の中に、制御不可能な部分が増えていく、もっと積極的な言い方をすれば、「他者性が問答無用で侵入してくる」ということである。人は自らの身体が制御可能なものとしての意識を持ちがちである。歩こうと思えば、足が動き、つかもうと思えば、ものがつかめる。見ようと思えば、見えるし、音に至っては聞こうとしなくても耳は音を拾ってしまう。

しかし、人は老いたり、障害を負ったりして、その制御可能性を失う。昨日までできていたことが事故によってある日突然、またはだんだんとできなくなっていく。自分の身体の中にままならない制御の困難さが誕生する。これが天田のいう「身体の他者化」である。

 他者化していく身体を「悲しい」や「つらい」と思わせる仕掛けの根底にあるのは、「同一性規範」である。近代社会がその基本原理としてもっている「アイデンティティの一貫性」である。つまり「あなたがあなたであることの証明は、昨日のあなたが今日のあなたと同じであるという合意や確認から生まれる」ということである。エリクソンのライフライクル論を持ち出すまでもなく、アイデンティティが一貫していない人間を、近代社会は成熟した人間と認めないことにした。そこにあるのは「子ども」や「高齢者」「障害者」というカテゴリの構築/発見である。

「昨日のあなたが今日のあなたと〈同じ〉(かそれ以上)である」という「同一性規範」は、近代社会のもつ能力主義や私的所有の合理的根拠となり、業績主義(人は属性ではなく達成した成果で報酬を得る)を補強してきた。だから人は、「できなくなること」を恐れる。「できる私」が「できない私」になっていくことを悲しみ、つらく思う。これと乳幼児が昨日までできなかったことができるようになる歓びとは、対になっている。老いや障害が自らの身体の他者性を増大させるものだとしたら、子どもの成長や発達は、自らの身体から他者を追い出すプロセスだといえるだろう。

 身体の機能の低下がもたらす「身体の他者化」と比較して、脳の記憶が失われていく老人性痴呆、アルツハイマー高次脳機能障害などは、その「身体の他者化」のスピードが爆発的に速いのではないか。老い衰えゆく身体を生きる当事者自身にも「自分の5分前の記憶がない」ことが自覚できる。記憶が失われていくことを、意識しつつも食い止めることができない。自分の脳の中から「わたし」が流出し、代わって「私でないもの=他者」が容赦なく侵入してくる。

明日の記憶』を見た人々が感じる「悲しさ」や「つらさ」とは、同一性規範を強調される近代社会において、「わたしがわたしでなくなっていく感覚」に当事者や家族が逃げ場なく巻き込まれること、にある。

 

ケアの社会化のもつ意味

家族介護やケアはその行為に参加する者のアイデンティティを、属性に応じて強化する。子どもをケアすることで親は親としてのアイデンティティを獲得し、子どもは子どもとしてのアイデンティティを獲得する。また夫婦間の互いのケアも、男性ジェンダー、女性ジェンダー再帰的に生成する。ケアはその行為自体が人々のアイデンティティと分かちがたく結びつけられているが故に、時にその交代は困難を含んでいる。

家族だけではケアが大変だから、社会サービスも使っていきましょう、というメッセージは正論である。時として、人は介護に疲れた人、介護に縛られていると(みえる)人に「もう家族だけがやるなんて時代じゃないんだから」と善意で、いう。しかし、時としてその「善意」は介護者の感情を激しく分裂させるのだ。

施設入所を「姥捨て」と家族介護者が表現することがあるように、ケアの社会化は極端に言えば「私にとってあなたは特別な存在ではない」というメッセージを暗に秘めている。介護者が表明する「ケアが社会化されることへの抵抗感」は、このメッセージを受け入れることの恐ろしさでもある。そして「自分で見られるうちは自分で」と社会サービスの存在にもかかわらず、社会サービスの利用を自ら抑制していくのだ。

また「社会化」がもっているもう一つの意味も介護者の抵抗の原因である。市野川(2004:114)が指摘するように、社会という言葉は二重の意味、つまり「平等への契機」であると同時に「画一主義」を正当化する。障害者や高齢者を社会が画一化してきた結果のグロテスクさを我々は既に優生思想(市野川 1999)や大規模施設処遇という形で知っている。

親密な間柄で行われるケアは、そこに参加する両者の個別の関係性や身体距離と不可分に結びついているが故に、社会化することに一定の困難を抱えざるを得ない。ケアを社会化することは、双方に関係やアイデンティティを変化させる、さらに言えば親密度を薄める効果がある。故に親密な間柄で行われるケアは、社会化されにくい。

 

場面1 ギガフォース河村部長(香川照之)と佐伯の電話

仕事の第一線である宣伝部を離れた佐伯のもとに、取引相手である河村から電話がかかってくる。「新しい担当者はだめだよ、やっぱり佐伯選手でなきゃ」と河村は佐伯を励ます。さらには昔の人間と比べた現代人の身体年齢、精神年齢は8割程度であるという眉唾な言葉を投げかけ、「ポジティブシンキングさ!」と明るく佐伯に声をかける。一見すると、事情をよく知らない者の外野からの無責任な励まし、ととれないこともない。筆者も身体年齢、精神年齢のあたりまでは、河村の無責任さにいらだちを感じていた。

しかし、である。佐伯と河村の電話が終わるころ、私はその電話が持つ意味の重篤さに「めまい」すら覚えた。

佐伯の周りの人々は、すでに佐伯が不可逆的な病であるアルツハイマーを抱えていることを知っている。家族、同僚、上司に至るまで、そのことを知っている。彼がもはや「以前の彼」ではないことを知っている。知っているが故に、佐伯をもう「かつての佐伯」として接することはなく、そしてできない。

しかし、河村は詳しい事情を知らない。治癒困難な病であることを知らない。知らないが故に、河村は佐伯を「かつての佐伯」として接する。佐伯がもっとも失いたくない、かつての自分、昨日と今日と、そして明日も同じであるという〈同一性〉を保持した自分は、すでに事情を知っている者たちとのあいだでは獲得することができない。だから河村の期待に応えられないことを知っている佐伯の、電話の冒頭での表情は硬い。しかし、河村が「かつての自分」としての自分に接してくれていることに気づくと、佐伯の表情は安心とも歓びともつかないものへといつしか変わっていく。「キャバクラ」という言葉は佐伯と河村が「以前と変わらない」ということを指し示す。だれも病を得た人をキャバクラへと誘わない。誘わないからこそ、佐伯は自分がもう「かつての自分」でないことを痛感するのだ。もちろん、河村の励ましはリスクを伴う微妙なバランスの上に成り立っている。それでも、世界に一人でも佐伯を、「かつての自分」として接してくれる人がいることは一つの救いである。

 

場面2 浜野(渡辺えり子)と佐伯枝実子とのやりとり

浜野が枝実子にケア付き住宅のパンフレットを差し出す。一度はパンフレットを受け取った枝実子だがさらなる浜野とのやりとりに「あなたにはわからないわ」と思わず、返してしまう。自分の口をついて出た言葉に驚きながら、枝実子は浜野に謝罪する。パンフレットは受け取るが、それを決して本気で考えようとはしない。

枝実子の家族介護はすでに限界を超えていた。食事を一人でとることができない。激しい感情の起伏をやりすごすことが難しくなっていく。枝実子は自分にできることがまだあるはずだと思い、しかし日々衰えゆく佐伯の姿を見ることが悲しい。家族だから何かできることがあるはずだ、家族にしかできないことがあるはずだ、しかし家族だから悲しい。

家族介護は、抜け道のない迷宮である。自分の特別で大切な人を自分がケアしたい。しかし一人ではつらくなる。ケアを外部の手にゆだねれば、それは大切な人を自分にとって特別な存在ではないことを少し認めたことになる。社会はそんな時代ではない、と家族介護者に声をかけるが、当の家族介護者はそれをありがたく思いつつも、認めることができない。

枝実子の口から思わず出た「あなたにはわからないわ」の一言は、家族介護者のアンビバレンツな感情からでたものである。子から親へのケアは外部化されやすいが、親から子、配偶者間のケアは外部化されにくい。それは「愛情規範」の順序に従っている。

 

場面3 菅原老人(大滝秀治)のつぶやき

「生きてりゃいいんだ、生きてりゃ」。映画の終盤で、菅原老人の口を通して語られるこの言葉は「老い衰えゆく当事者」へ、その周りにいる人がかけたい言葉である。例えあなたがどのような状態になろうとも、私はあなたに生きていてほしい、と人は願う。しかし、「生きていてほしい」と思う気持ちと、「以前のままでいてほしい」という気持ちが同時に存在し、両立しない。どちらかしかとれないという状況の時に、老い衰えゆく当事者と老い衰え衰えゆく当事者の周囲に人々は、微妙にその願いをずらしていく。

当事者は「衰え衰えゆく自分の身体」に他者が介入してくる事態におびえ、「生きる」と「今までのようにいる」ことの優先順位は「①今までのように生きる」「②生きる」となる。だから「役に立たなくなった自分は死んだ方がいい」と考えてしまう。

周りにいる人は、その順位は、「とにかく生きていてほしい」「どのようになろうとも生きていてほしい」と願う。そのことは確かに、「今までのようでなくなっていく自分の大切な人」を見続けることでもある。

だから、どちらをとるか、を考えたときに、当事者以外の人々ができることは老い衰えゆく当事者に「生きてりゃいいんだ、生きてりゃ」と声をかけることである。大切なあなたに私は生きていてほしい、と願うことである。それは同時に悲しみをともなう。家族であるから悲しい、家族であるから生きていてほしい、のである。

 

まとめ

アルツハイマー病が、「記憶」の保持に関する障害である以上、その「記憶」のほつれの影響を受けるのは、間違いなく、記憶をともにしてきた周りの人々である。人は、一人で人生の記憶を作るのではない。周囲の人々と相互作用し、社交し、共有し会える現実を構成し、日々を生きてゆく。昨日と、今日と明日は同じ自分であるはずだという前提で生きている。「記憶」の障害は、その前提を激しく揺さぶる。その揺さぶりは、老い衰えゆく当事者のみにかかるものではない。老い衰えゆく当事者の周りの人々も同じようにその足場を揺るがされる。「記憶」が老い衰えゆく当事者だけのものではない以上、それは必然である。

記憶を失う障害に対して、医学ができることも、福祉ができることも、想像以上に少ない。それは学者の無力さを証明する現実に他ならないのかもしれない。学者がこの問題に唯一貢献できること、それは老い衰えゆく当事者と周囲の人々の生を記述すること、私にはまだそれ以上の手段が見つからないでいる。

 

参考文献

天田城介 2004a.『老い衰えゆく自己の/と自由-高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.

市野川容孝, 1999, 「優生思想の系譜」石川准・長瀬修編著『障害学への招待――社会・文

化・ディスアビリティ』明石書店, 127-158.

――――, 2004, 「社会的なものと医療」『現代思想』32(14): 98-125.