障害者福祉論§4

障害者福祉論§4のレジメはここ

障害者基本法の改正作業が進んでいる中、障害者基本法について話す。細かな内容よりも、変化の流れをつかんでほしいと思うのだが、細かい話になってしまい、反省。

「継続的」→「周期的、または断続的」
「可能な限り」→「障害者でない者と等しく」

この辺の文言が入るかなぁ…。

障害者福祉論§2

障害者福祉論§2のレジメは、ここ。

コミュニケーションペーパーを見ると、今日の内容は、ほかの講義でも結構出てきたみたいです。ICIDHからICFへの変遷は、障害の認識が、医学的モデルから社会モデルへと変化していく流れをもっています。

かといって、社会モデルが医学やリハビリを否定したわけではありません。このセクション、もう少しだけ続きます。

代わりにはできない

午前中、アポがなくなったので、抜け出して京都シネマへ。
今日の映画は『平成ジレンマ』。知っている人は知っている、戸塚ヨットスクールのドキュメンタリー。

http://heiseidilemma.jp/

事件当時、私は愛知県で小学生だった。ひらけポンキッキが終わって始まる、朝のワイドショー。ちょっとおサボりして(サボってばっかりだな)家に長居すると、そこには大人の世界が広がっていた。「不倫」や「浮気」、「政治犯」という言葉も全部そこで覚えた。
覚えているのは、日航機墜落、大韓航空機爆破事件、そしてこの戸塚ヨットスクールの報道だ。

80年代は、校内暴力と家庭内暴力の時代。「不良」という言葉がまだ元気だった。積木崩しという映画を7歳で見せられ、「女の戦いはえげつないな」と思った。本当は「ドラえもんのび太の魔界大冒険」を見に行くよ、と連れて行かれたのだが、これは母と姉の陰謀だと映画が終わって気づいた。(まだ公開は1週間ほど先で、映画の前に予告編だけあった)

話がそれた。映画の内容は、見てもらえればわかるとして、上映中、私は戸塚宏の表情から目が離せなかった。特に印象深かったのは、11歳の短期入所生に対して向けた笑顔(あれは笑顔か?)だ。「自分でやるんだよ、自分で」と言いながら笑って(いや、嗤ってかも)ただ見つめている。「自分でやるしかないんだよ」と繰り返す。

教育の持つジレンマ、は「体罰を使えない」と言うだけではない。「代わりにやっても意味がない」という点である。自分の手元を離れた学生が、どうなろうと、教員にはどうしようもない。その人の代わりにその人の生活を送ることも直接支えることもできない。

「できるようにすることが教育でしょう」。はい、たしかにその通り。しかし、できるかどうかを確信を持って教え子を送り出せる教育者がいるとしたら、それはたぶん、勘違いだと思う。

体罰はいけない。これは間違いない。しかし、体罰を進歩のためだ、という戸塚の人格を否定することはできない。

ドキュメンタリーの最後で、弁護士が再び戸塚を訴える準備をしているというコメントがあり、さらにそれでも新たな入塾生がやってくる、という風景が挿入され、ドキュメンタリーは終わる。

弁護士に訴えられたら、悪、ではない。弁護士は、依頼人がいれば、嘘でも弁護をすることがある。

ドキュメンタリーの中で、児童相談所や情緒障害児短期治療施設がちらっと登場する。戸塚ヨットスクールの「お客さん」は社会福祉士の実習でであう子どもたちとほぼ被っている。さまざまな社会背景が…複雑な家庭環境が…と私がしゃべっても、映像のもつ説得力と、それが刺激する想像力にはかなわない。

京都シネマで,4月22日まで。